14期1学年第8回講座 江戸時代後期・幕末の忍藩~三方領知替から戊辰戦争まで~
1学年の第8回講座が7月27日にグリーンアリーナ研修室で行われました。行田市郷土博物館の鈴木紀三雄館長の三連続講座の最終回です。今回は文政6年(1823)に松平下総守家が桑名から忍に入って以降、 房総半島沿岸警備や台場警備、 戊辰戦争を経て明治6年の忍城廃城までの歴史を概観していただきました。
令和5年は三方領知替から200年という節目の年ですが、講義はその三方領知替から始まりました。
まず、「『三方領知替』という言葉について、領知の「知」は「知行」の「知」。知行とは大名の領地。領地の支配が変わるので、三方領知替と言います。」というお話がありました。
(1) 三方領知替とは
・三家の大名が同時に玉突き状態で転封となること。
・江戸時代を通じて、 12回発令され、 11回実施された。
・石高が同等の譜代大名間で行われた
(2) 文政6年(1823) の三方領知替
・忍藩主阿部正権(18歳) 白河へ
・白河藩主松平定永(33歳) 桑名へ
・桑名藩主松平忠暁(22歳)忍へ
そのあと
(3) 三つの大名家について
・阿部家 初代は家康に仕えた阿部忠吉(旗本)
・久松松平家(松平越中守家)九代が寛政の改革を行った松平定信。
・平松平家(松平下総守家)初代は家康の長女亀姫の四男松平忠明(ただあきら)
(4) 転封の発端
(5) 経過
2 松平下総主家について
(1) 松平下総守家とは
(2) 松平家入封後の忍藩
のお話がありました。
3 房総半島沿岸警備について
(1) 沿岸警備の発令
①警備の発令 東アジアの国際情勢が背景
高島秋帆の徳丸が原砲術演習、天保の薪水給与令 アヘン戦争(英国と溝の戦争の敗北情報 天保13年(1842)8月3日 発令
担当藩 忍藩(房総半島側)・川越藩(三浦半島側)に江戸湾沿岸警備を命じる。
忍藩主松平下総守家(10万石) 先祖は徳川家康の外孫松平忠明
川越藩主松平大和守家 (17万石)→先祖は徳川家康の次男結城秀康
②警備体制の構築
③警備の実際
天保14年2月1日に忍を出発。 5日 富津到着、 9日備場と遠見番所などを受け取り
3月 藩主松平忠国が視察。派遣藩士は300人ほど。 富津屋と竹ヶ岡陣屋に常駐。 崎と白子へ交替で派遣。備えられた砲数 合計82門。
(2) 海防四藩による警備体制
①ビッドルの来航
弘化3年(1846)閏5月
アメリカ東インド艦隊司令官ビッドル率いる巨艦2隻(コロンブス号・ピンセント号の江戸湾沖来航。目的通商の要求 幕府の対応拒絶。
②警備の再編強化
・管轄の変更 弘化4年(1847)2月 総半島に会津藩(23万石)、 三浦半島に彦根藩(30万石)を加える。
分担・・富津から安房国塩入村・ 坂之下村あたり (旧富浦町 南房総市)を会津藩、それより南 大房 (だいぶさ) 岬から白子までを忍藩
◎沿岸警備は松平家にとって大坂夏の陣 (1615年)以来の大規模な軍事動員
◎以後は様々な形で時代の荒波に対応していくこととなる。 ◎軍役は表向き名誉なこと。 しかし藩 藩士ともに相当な負担 |
4 ペリー来航と沿岸警備
(1) ペリー来航の情報
①嘉永5年(1852)6月のオランダ別段風説書…幕府は事前に来航を知っていた。
②幕府の対応 薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)・福岡藩主黒田斉溥(なりひろ)、 海防四藩(忍・川越・ 会津 彦根らに情報提供。
(2) ペリー来航と忍藩
①第一回来航時の対応
嘉永6年(1853)6月3日 軍艦4隻 浦賀投錨。
目的 漂流民の救助。 薪水・食料の給与。 通商締結。
9日 ペリー上陸、 浦賀奉行、米国書受け取り。 川越藩・彦根藩は陸上、
忍藩・会津藩は海上を警備
②幕府の対応と忍藩主松平忠国の考え
幕府国書を受け取り、来年返答する。
③日米和親条約締結
安政元年(1854)1月
内容下田と函館の開港、アメリカ船に対する新水・食料の補給、
漂流船員・来i船員の優遇、下田港にアメリカ官更の駐在、アメリカに対する最恵国待遇
④松平忠国の政治的立場
(3) 品川沖台場警備
①建設の理由”ペリー来航による江戸湾整備の強化
江「英龍の提言。
三浦半島と上総・安房国を調査。観音崎と富津に台場を築くこと。
品沖の内海に台場を築くこと。・・・2列11基、海岸に1基
②発令・・嘉永6年(1853)11月14日
③内容・・第一台場 川越者、第二台場 会津藩、第三台場 忍藩、羽田~大森 彦根藩
④経過・・安政元年(1854)3月15日房総・三浦半島沿岸警備担当場所引き渡し
閏7月28日台場増築に際して、第三台場以外の警備の部退を願う。
◎江戸湾海防を務めるのは武蔵国の譜代藩の本来の役目。 しかし、藩には相当の負担となっていた。
◎ペリー来航以来の松平忠国の対外論 強硬派ではなく現実路線。 ◎溜間詰大名としての立場からの政治活動を行っていた。 しかし、その枠を超えての活動はみられない。 |
5 忍藩主の代替と幕府の軍役
(1) 忍藩主の代替
(2) 松平忠誠の上洛
◎幕末の政治情勢が影響した松平忠国から忠誠への代替わり
◎幕末の動乱のなかで、譜代大名として命じられた軍役負担を行う。 |
6 戊辰戦争と忍
(1)鳥羽伏見の戦いと松平忠誠
①松平忠誠の上洛
②新政府への対応
①忍城開城
②東北出兵
③その後の忍藩
◎大政奉還後は藩主が上洛し、幕府軍の一翼となるが、 鳥羽伏見の戦いの敗北により江戸へ帰還。
◎新政府軍側か旧幕府側かで藩論が分かれるも最終的に新政府軍に属し、 北関東 南東北を転戦した。 |
おわりに
◎沿岸警備に始まり、 台場警備、 京都警備など、 譜代大名として幕府の軍役の一翼を担っていた 「武門の家」 でもある松平下総守家の役割でもある。
◎幕末の政治は薩摩・長州・土佐などの西南雄藩と水戸・ 会津越前 彦根などの徳川一門・譜代藩の活躍が取り 上げられる。 そのなかで忍藩は溜間詰として、 他藩と連携して政治活動を行っていた。 ◎戊辰戦争時、藩内は新政府への恭順・佐幕に揺れるも、 多くの大名と同様に「御家の存続」を優先し、新政府軍 の一角となった。 |
幕末50年間の忍藩の歴史を概観して講義していただきました。
「のぼうの城」で有名な忍藩ですが、江戸時代になっても「家康の城」「徳川の城」として、重要な地位にあり、「溜間詰め」という江戸城の席次の最高位にあったこと、江戸藩邸も上屋敷は二重橋近くの重要な位置にあったこと、一門大名として沿岸警備を任されたこと等々、忍藩の政治的立場の高さを学びました。ビッドルやペリーの来航、戊辰戦争では新政府側に加わり、東北出兵なども行ったが、軍事拠点にならないと判断され、忍城は廃城。幕末の忍藩の歴史が波乱万丈であることを学びました。
鈴木紀三雄館長、三回にわたる講義、ありがとうございました。最後のほうでの市民大学生の質問にもくわしくお答えいただき、皆、行田の歴史の奥深さの余韻に浸っていました。
運営部から、9月から始まる「ものつくり大学」についての説明や注意があり、広報部からは8月19日と20日のパソコン講習会についての連絡がありました。
最後に今回の運営当番の「産業・経済グループ」の一言自己紹介がありました。
それぞれの決意と自己紹介、市民大学の講義の面白さなど、はきはきとしたスピーチに、生徒の皆さんも興味深く耳を傾けていました。
8月のパソコン講習会が終わると、9月からは講義会場が「ものつくり大学」になります。市民大学の皆さんんが「ものつくり大学」で「大学生」として受講していきます。この酷暑を乗り越えて、さわやかに、また、「ものつくり大学」で会いましょう。