16期生1学年第8回講座「忍城主はなぜ江戸幕府に重用されたのか」

第8回講座郷土の歴史「忍城主はなぜ江戸江戸幕府に重用されたのか」が7月24日(木)に行田市郷土博物館鈴木紀三雄館長を講師に迎えて、16世紀末から19世紀前半までに忍城主となった大名家を概観し、忍城・忍藩主の位置付けや「老中の城」(研究者の弁)の成立とその変貌を幕府と忍藩の関係から考える興味深い講義でした。

江戸幕府と忍藩の関係

徳川家康は忍城に10回来訪している。好きな鷹狩りに9回、亡くなり久能山から日光東照宮に向かう中で1回。

生前の家康の数少ない肖像画で41歳ころ。亡くなった後は神様仕様となり狛犬または霞が描かれる。

1.松平家忠・松平忠吉時代

松平忠吉入城まで忍城に暫定的に松平家忠が城預かりとして入城。自筆の日記が残る「家忠日記」は忍城に居る時のことが記されている貴重な資料。

家康は地理的な条件から忍城を重要視した。利根川と荒川に挟まれた肥沃な土地にあり、武蔵国の北辺・上野国との国境の城であった。

2.幕領の時代

松平忠吉の尾張転出後、忍領は徳川家の直轄地となり、代官が支配。忍城には城代が置かれた。検地が慶長12年から14年に行われ、検地帳が作成され年貢割付状が発給された。「年貢割付状」は上田、中田、下田の評価があり地目、面積により課税額が決められた。慶長10年代から江戸時代260年を経て明治時代まで続いた。年貢は村単位で課せられた。

3.松平信綱時代

4.阿部家時代

阿部家は譜代大名の政治家一族。「老中の城の中の老中の城」

忍藩領の重要性

5.「老中の城」の転換

「三方領知替」白河藩主松平越中守定永➝桑名藩主、桑名藩主松平下総守忠堯➝忍藩主、忍藩主阿部正権➝白河藩主

松平忠堯 徳川家家康の血を引くものは政治に携わらず

譜代大名の松平家は軍事力で幕府を支えた。

 

積極的な多くの質問がありました。

藩領が関西にもあった。石高を増やすためには関東の土地が錯綜していたので、たまたまなった。現地に陣屋を設け家臣を派遣し管理した。

阿部家は広島県福山市に本家があり忍の阿部家は分家になる。

グループ紹介は本日の授業運営当番の福祉・健康グループでした。

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