14期1学年第7回講座 忍城主はなぜ徳川幕府に重用されたのか~「老中の城」の成立と変貌~

行田市郷土博物館鈴木紀三雄館長の連続講座二回目、タイトルは「忍城主はなぜ徳川幕府に重用されたのか~「老中の城」の成立と変貌~です。

2023年7月13日に行田グリーンアリーナ研修室にて午前10時から講義が行われました。

講師 行田市郷土博物館 鈴木紀三雄館長

「のぼうの城」で有名な「忍城」ですが、今回は16世紀末から19世紀前半までに忍城主にとなった大名家にスポットが当てられました。

1 松平家忠(いえただ)・松平忠吉(ただよし)(天正18年(1590)~慶長5年(1600))

(1)松平家忠(いえただ)と忍城

16世紀末に初めて忍城主になったのは家康の4男松平忠吉。忠吉が幼かったため暫定的に家康家臣の松平家忠(いえただ)が城預かりとして入城。

左 徳川家康 右 松平忠吉(4男)

(2)忍城主松平忠吉(ただよし)

①松平忠吉(ただよし)について

天正8年(1580)生、徳川家康の4男。母は西郷局(お愛の方)。兄は秀忠。

②関ヶ原の合戦と松平忠吉

徳川方の主力である秀忠が不在→井伊直政に従い抜け駆けの先陣を果たす。

軍功により尾張国清州城52万石を与えられる。

家康の実子が城主となる→家康は忍城の重要性を認識

利根川と荒川に囲まれた肥沃な土地→河川管理の重要性→治水の要

武蔵国の北辺・上野国との国境→戦力的重要性

2 幕僚の時代(慶長5年(1600)~寛永10年(1633))

(1)忍城周辺(忍領)の徳川直轄地(幕領)化と農政・治水の整備

松平忠吉(ただよし)の尾張転出後、忍領は徳川家の直轄地となり、代官が支配忍城には城代が置かれる。

①検地と年貢割り付け状の発給

伊奈忠次 大河内氏による検地。検地帳の作成。荒川の瀬替えなどの治水工事が行われる。

元禄7年領地朱印状

(2)家康の動向

徳川家康がたびたび鷹狩で忍城を訪れる。

◎家康の鷹場としての忍、忍御殿の存在→「大御所」家康が滞在する城郭

「家康の城」

◎幕府直轄の農政政策が忍領で実施→関東における幕府農村政策のモデルコースとの評価

「徳川の城」

3 松平信綱時代(寛永10年(1633)~寛永16年(1639))

(1)松平信綱の藩主就任

①松平信綱の経歴

②忍城主就任

寛永10年(1633)に老中となり忍城主(3万石)となる。

藩主就任中に島原の乱勃発、幕府軍総司令官として九州へ出向き乱を鎮圧。

寛永16年、6万石で川越城主となる。

熱心に聴講する生徒の皆さん

③忍領普請組合の設置

寛永12年(1635)幕府は利根川通・荒川通の普請組合(堤防工事等)を設置。

設置は幕府、担当は忍藩。

領主の支配が錯綜した地域で、河川工事に対応するため支配領域を超えた組織が必要。

◎老中就任者の城主就任→背景には権力者の代替わりに伴う幕閣たちの人事異動

◎もともと、信綱は忍領と関係が深かった(父親は忍領の代官、酒巻村は松平信綱の領地)

4 阿部家時代(寛永16年(1639)~文政6年(1823))

(1)阿部忠秋の藩主就任

①阿部忠秋の経歴

徳川家光の小姓から寛永11年に老中となる。

②忍城主就任

寛永16年(1639)松平信綱川越へ.

下野国壬生城おり阿部忠秋(老中)が入る(5万石)。

③徳川家綱政権と阿部忠秋

阿部忠秋の老中就任は寛文6年(1666)まで32年に及ぶ。

◎阿部家は幕府要職に就任する譜代大名の典型→初代藩主阿部忠秋の功績による

忍城は近世前期に「老中の城」として位置づけられる

◎近世中期以降は老中就任者の居城が関東以外に広がる→武蔵国譜代藩の役割が変わってくる そのなかで、最も長く維持したのが忍藩阿部家。

③領地の変遷元禄7年(1694)阿部正武10万石に加増。

忍藩領分図 元文2年

 

5 「老中の城」の転換

(1)文政6年(1823)の三方領地替

忍藩主阿部正権(まさのり)       →白河藩主へ

白河藩主松平信綱越中守定永(さだなが) →桑名藩主へ

桑名藩松平下総守忠堯(ただたか)    →忍藩主へ

(2)忍藩主松平下総家の特徴

家格が徳川家一門でトップクラス。

母親が家康の長女(亀姫)、幕府の重鎮(軍事部門)

幕府の要職に就かない譜代大名。老中は出さない。

◎老中就任者を出さない大名家の藩主就任→「老中の城」の終焉

◎幕末の動乱の中で幕府の軍事動員の一翼を担う。

 

 

鈴木館長の講義で、家康が忍城を重視していたこと、生涯で9回も忍に鷹狩に来たことなどが分かりました。

政治的には幕僚時代の農政政策が忍藩の基盤になり、これが年貢村請制など、江戸時代の基本モデルになったことも分かりました。

持田の正覚寺に松平忠吉(ただよし)の子供(家康の孫)で早逝した「梅貞童子」のお墓と御守筒があることを知り、近くなのでお参りしようかと思いました。

梅貞童子(松平忠吉の子)御守筒 正覚寺

「のぼうの城」として有名になった「忍城」ですが、その後も「家康の城」「老中の城」として重要な役割を果たし、関東における幕府農村政策のモデルコースになったことなどなど、行田の歴史は奥が深く、歴史が連綿とつながっていると実感しました。

 

講義の後は、今回の運営当番の「福祉・健康グループ」の自己紹介と前々回担当の「歴史・文化1グループ」の自己紹介がありました。

今回の運営当番の「福祉・健康グループ」

前々回担当の「歴史・文化1グループ」

 

市民大学入学の理由や自分の好きなことを笑顔で明るく語る自己紹介を聞き、生徒の皆さんから「おーっ。」という声やうなずく姿がみられ、大変和やかな自己紹介でした。

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