14期(1学年)第3回講座「郷土の地形の成り立ちと古代の歴史」
行田市民大学1学年の第3回講座は行田市文化財保護課の中島洋一課長の講義「郷土の地形の成り立ちと古代の歴史」でした。
中島課長には、市民大学の講座を長年にわたり担当していただいています。
考古学、地形学、歴史学を交えた奥の深い講義に、学生の皆さんは聞き入っていました。
【講義内容】
1.行田の地形の成り立ち
長い歴史の中で「この風景は永遠ではない」
1万年前、このあたりは起伏のある地形だった。現在の妻沼低地と加須低地は地中が違う。
関東平野は盆地みたいなもの。周りの山が上がったから、結果として下がり、川が東京湾に向けて流れ込んで、土砂を持ってきて平野を作った。
行田は平らに見えるが昔は東半分は大宮台地の上にあった。すり鉢状に下がって大地が低くなり、利根川、荒川の土が流れてきてたまっていった。
2.行田のあけぼの
18,000年前の石器のかけらが長野中学校校庭から見つかった。旧石器時代の黄色の土の中から出てきた。
小針では生活した炭化物(炭)が発掘された。旧石器時代キャンプをしながら狩りをして移動していた時の一時的なキャンプの跡。
長野中のあたりは行田で一番高い。浸水を免れたところ。小針も大地のへりで古代蓮の沼地に面した高台。
縄文人は微高地にキャンプしていた。
旧石器時代の終わりごろ寒くなり、人々は移動して、行田に人が住まなくなった。
3.米づくりのはじまり
実は関東地方は日本で一番遅く米作りが伝わったところ。北九州から東海地方を経てばらばらに各地に伝わったものが、最後に関東地方に伝わった。
北関東で一番初めに稲作が定着したのは埼玉県。「池上(いけがみ)・小敷田遺跡群(こしきだいせきぐん)」
寒冷化により稲作は弥生中期で終了する。
4.さきたま古墳群の成立
古墳時代の最初頃集落ができる。関東の川の流れが安定する。人々が戻ってくる。その時、愛知系の先進的な技術を持った人々が流れ込んだ。
古墳時代の終わりごろ、突然、埼玉古墳群ができる。
稲荷山古墳はもっとも古い古墳だが、墳長が100メートルを超えた巨大古墳がいきなりできる。
古墳の主軸は三系統でそろっている。稲荷山古墳、二子山古墳、鉄砲山古墳の三基が今でいう県知事の墓とみてよい。
5.その後のさきたま
その後はこの本家から分家した勢力が力を持ち、真名板高山古墳(まないた たかやまこふん)、小見真観寺古墳(おみ しんかんじ)、八幡山古墳(はちまんやま)の被葬者がそれぞれトップとして順番に長(おさ)なったとみられる。
その後、講義についても質疑応答が行われ、地元についての古墳の質問などが出ました。身近な場所の地形や古墳のお話に、生徒の皆さんは真剣に聞き入っていました。
【グループ編成】
講義のあとは、広報部から8月のパソコン講習会のお知らせがあり。その後はグループのリーダーなどを決める話し合いがありました。
グループごとに輪になってにこやかに話し合いが行われました。
今後は、グループで活動することが増えていくことでしょう。
【インタビュー】
★今日の講義「郷土の地形の成り立ちと古代の歴史」はためになりました。縄文時代に行田の地域に無人時代が何回かあったことは、意外でした。荒川、利根川の氾濫が理由であったのか、と思います。(市内 男性)
★嫁いで半世紀になるが行田を知りません。行田の歴史を勉強したいです。グループ研究では、自分の事として、自分の未来、ゆくみちが豊かになるテーマを作りたいと思います。(市内 女性)。
【インタビュー 広報 田島】
グループごとの話し合いでは、グループ分けと役割分担も決まって、どんなテーマで研究をしていこうかという意欲が感じられました。これからのみなさんの行田市民大学生としての活躍が楽しみです。