1学年(12期生)第5回講座「のぼうの城」を検証する
6月17日、コロナワクチン接種会場でもある行田グリーンアリーナの研修室で1年生第5回講座「のぼうの城」を検証する‥成田氏の盛衰についての授業がありました。
講師は行田市郷土博物館の鈴木紀三雄館長。
まずは、「のぼうの城」の映画で描かれたようなことは、本当にあったのでしょうか?という問いから始まりました。甲斐姫のこと、のぼう様のこと、石田堤のことは、古文書(同時代資料=当時の人々が書き記した史料)に記載された内容を読んで考えると違った歴史像が浮かび上がると、講義を進めました。
以下は、講義内容。
現代に残された古文書は、同時代の、しかも当事者である石田三成や秀吉などが、書いたものが残っている。
まず、忍城がいつ頃できたかだが、残された古文書からは文明11年(1479)までには築城されていたことがわかるが、それ以上は判明しない。
成田氏は強大な戦国大名の間で、立場を変えながら生き残りを図り、北武蔵最大の戦国領主となった。
石田三成の忍城水攻めを進めたのは豊臣秀吉。
江戸時代の書物の内容と古文書の事実とは違う。
成田氏の歴史は尾張系成田氏が作成した系図の記載内容が大きな影響を与えた。
特に秀吉の朱印状(命令書)天正18年(1590年)7月3日の浅野家文書(秀吉が浅野長吉に当てた書状)の中の「忍城は水攻めにせよと命じているのだから、そのように申し付けろ」という内容は、リアリティがあり、圧倒的な現実感のある古文書でした。