忍藩主はなぜ江戸幕府に重用されたか~「老中の城」の成立と変貌~
2026年7月9日。市民大学1学年講義が行われた。6月11日【成田氏と忍城について】に続き、同じく、行田郷土博物館館長、鈴木紀三雄氏を迎えての2回目となる。
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★16世紀末から19世紀前半までに忍城主となった大名家を概観し、忍城・忍藩主の位置づけや「老中の城」の成立とその変貌など、主に幕府と忍藩の関係から考える。が本日の講義内容である。
1、松平家忠・松平忠吉時代(天正18年(1590)~慶長5年(1600))
◎家康の実子が城主となる→家康は忍城の重要性を認識
◎利根川と荒川に挟まれた肥沃な土地→河川管理の重要性→治水の要
◎武蔵国の北辺・上野国との国境→戦略的重要性
2、幕領の時代(慶長5年(1600)~寛永10年(1633)
◎家康の鷹場としての忍・忍御殿の存在→「大御所」家康が滞在する城郭
◎幕府直轄の農村政策が忍領で実施→関東における幕府農政政策のモデルケースとして評価
3、松平信綱時代(寛永10年(1633)~寛永16年(1639))
松平信綱(幕府の老中)忍城主(3万石)となる
◎老中就任者の城主就任→背景には権力者の代替わりにともなう幕閣たちの人事異動
◎元々信綱は忍領と関係は深かった(父親は忍領の代官。酒巻村は信綱の領地)
4、阿部家時代(寛永16年(1639~文政6年(1823))
◎阿部家は幕府要職に就任する譜代大名の典型→初代藩主阿部忠秋の功績による
◎忍城は近世前期に「老中の城」と位置付けられる
◎文政6年(1823)三方領知替え
◎老中就任者を出さない大名家の藩主就任→「老中の城」の終焉
◎幕末の動乱のなかでの幕府の軍事動員の一翼の担う
★家康の忍城重視にはじまり、幕領時代の農政政策が忍藩の基盤となった。
★松平信綱・阿部忠秋ら重要幕閣が忍城主に就任したことにより「老中の城」として位置づけられた。
★元禄時代には武蔵国内の忍藩領地8万石確定した。
★阿部家は代々老中就任者を輩出したことのにより、幕府を支える武蔵国譜代藩としての役割を保ち続ける。
★松平下総家の藩主就任により「老中の城」としての役割が終焉する。
我が行田の忍城を前回は、「花押」や「朱印状」などから紐解き、たどってきたが、今回の講義は「忍城は老中の城」の中の「老中の城」ベスト「老中の城」という視点での授業。歴史はいくら学んでも奥が深い。
姫路城や金沢城、大阪城や明石城、熊本城・・・日本には大きな天守郭を現在誇り、多くの観光客を集めマスコミTVなどで人気の城はたくさんある。
悠久の歴史がそれぞれあり誇りを持って地元民が愛している。忍城は10万石、金沢城は100万石、明石城のような長い石垣も残っていない。・・・など忍藩を小さく思っている方もいるだろうか?本日の講義で、忍藩が、忍藩主代々がいかに、悠久の歴史の中で老中をずっと何代も輩出し、徳川幕府のご政道にいかに尽力信用があったか。日本の農政検地や課税見本、現在の日本の礎を担ってきたか、その力を知り、
もっと行田の民は忍を愛し世界の方々に知ってもらいたいと、講義を聞き入った。次回の新しい発見の授業が楽しみな学生たちであった。





