第16期生(1学年)第7回講座「のぼうの城」を検証する・・・成田氏の盛衰

第7回の講座は題記のように「のぼうの城」の検証でした。行田市郷土博物館 鈴木紀三雄館長を講師に迎えて令和7年7月10日(木)に成田氏と忍城についても詳しく、分かりやすく講座が行われました。

今から13年前(2012)に 戦国時代を舞台した映画『のぼうの城』が上映していた頃
郷土博物館に多くの人が来場された話から講義が始まりました。

鈴木紀三雄館長

鈴木紀三雄館長

講義内容

1.成田氏の登場

成田系図によれば成田氏の先祖は藤原鎌足。
平安末から成田郷(熊谷市上之)あたりを本拠にしていた豪族。
鎌倉末から南北朝期、安保信保系の阿保氏が成田家の領地を継承し、家名も継ぐ。

*鎌倉幕府の御家人であった成田氏は鎌倉末から南北朝の動乱の中で没落し、縁戚の安保氏が所領を引き継いだ。

*戦国時代の成田氏はこの安保氏の系統。

2.忍城の築城・・・15世紀後半頃
享徳3年(1454)の享徳の乱の勃発 鎌倉公方(足利氏)と関東管領(上杉氏)戦いにより 関東の戦国時代の幕開け。

文明11年(1479)閏9月24日付、古河公方足利成氏から別府宗幸への書状から忍城の存在が確認される。

*忍城は足利成氏書状にあるとおり、文明11年には築城されていた。

*築城の背景にあるのは、関東の戦国騒乱。

*築城したのは成田下総守・成田顕泰と推測。

3.戦国時代の成田氏の動向

*成田氏は戦国の動乱の中で国衆として古河公方・山内上杉氏・上杉謙信・北条氏・織田氏との間でその情勢により立場を変化させていった。

*羽生城の落城により、成田氏は北武蔵最大の戦国領主(国衆)へと成長した。

4.忍城攻防戦

(1)天正17年(1589)豊臣秀吉の関東出兵

・豊臣軍の編成総勢24万

①先方 一番隊 徳川家康以下十二番隊まで約12万3千が東海道を進む。

②本隊 秀吉軍以下 3万が東海道を進む。

③北国隊 前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら約3万5千が碓氷峠を越えて関東へ。

④水軍 九鬼嘉隆ら約1万4千が相模湾に進軍。

(2)北条方の備え

①小田原城に篭城 対豊臣を想定して以前から増改築を重ねる。

②国衆の小田原への参陣(成田氏長等)。

③主要な支城(鉢形城・韮山城・山中城・八王子城等)・配下の国衆の城による防衛。

天正18年(1590)2月徳川家康ら出陣。

5.忍城水攻め
天正18年(1590)石田三成は 2万の軍勢を忍城に派遣、秀吉からの指示は 水攻め。

忍城水攻め

6.忍城の開城
7月5日 北条氏降伏。
7月6日 小田原城開城。
7月14日 忍城、豊臣軍に引き渡し。浅野長吉・木村常陸介ら忍城へ入城。

*忍城攻めを豊臣秀吉の関東侵攻の中に位置づけることが必要。

*忍城攻めは秀吉の水攻めの方針のもとに行われ、秀吉は最後まで水攻めに執着した。

7.忍城退出後の成田氏

①成田氏長の動向

成田氏長らは蒲生氏郷お預けとなる。九戸の乱に蒲生軍の一員として参戦。

天正19年(1591)には烏山城主2万石として復活。

②成田宗家のその後

家督は弟泰親が相続、関ケ原の戦いで1万7000石加増。

③尾張藩系成田氏について
成田長親の子 長李が新たな忍城主松平忠吉に仕え、忠吉の尾張国清洲転封に従い移住 以後、代々尾張藩に仕え 明治維新を迎えた。

鈴木館長の講座は、おもしろく、大変興味深く聞き入りました。
次回講義は 江戸時代の忍城です。

最後に歴史・文化グループ2から自己紹介がありました。

歴史・文化グループ2

Follow me!