16期生1学年第6回講座「日本一の足袋産業と行田の歴史」
第6回講座「日本一の足袋産業と行田の歴史」が2025年6月26日(木)に行田市教育委員会文化財保護課中島洋一主査を講師に迎えて開催されました。
行田市の原点 日本一の足袋産業
1.はじめに
中島主査は自宅の長野地区から2㎞の通勤途上で足袋蔵の多さに気付き「近代遺産として足袋蔵を残したい!」と思った。
近代化を象徴するものを文化財に。文化財には①指定文化財②登録文化財:使い続けてよいの二つがある。
平成12年、シャッター通り化した町を再生したい。学生の視点からの再生提案は基本的方向性は一つ、足袋資産の再活用だった。
モデルケースに一つの蔵の再生を手掛ける。これがNPOが運営している「忠次郎蔵」。これを縁に足袋屋さんとの付き合いが始まる。
平成29年、行田足袋と足袋蔵のストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」が日本遺産の認定を受ける。
2.行田足袋の歴史と足袋蔵の成り立ち
坂巻地区で綿の栽培が始まる。これを原料として足袋づくりが始まった。享保年間かめやが足袋を始めた?との伝承がある。享保年間(1720年代)「行田町絵図」に足袋屋が3軒。3軒の数字は大きいか?産地とは言えないか?江戸時代、足袋はぜいたく品で商家、武士のみが履くものであった.天保年間(1840年代)足袋一色で福島の須賀川まで販路があった。足袋には株仲間ができず流通は自由に行えた。
明治の前半には一般庶民も足袋を履くようになり、寒冷地では綿が栽培できないため防寒のため足袋の需要があった。明治30年代に郵便局で郵便電報、郵便為替、郵便小包の取扱い、忍商業銀行の創設で原料仕入れ資金、売れたら返済、忍馬車鉄道で高崎線、東北本線経由により遠方との商取引が容易となった。足袋屋各々が1か所の地域を集中的に売り込む独占販売方式だった。小規模の足袋屋が林立する一大産地を形成した。この頃の足袋の三大産地は①行田②大阪堺③大牟田・久留米。20人程度の若手が「行田足袋研究会」を立ち上げて「安かろう悪かろう」からの脱却と行田ブランド「産地としての行田足袋」で知名度向上を目指す。関東大震災により大消費地とうきょうの足袋需要を取り込むことで日本一の足袋産地となる。
全盛期の8,400万足から昭和29年は5,500万足、昭和33年は2,100万足となる。足袋から被服に転換する。工業団地の造成、大手の下請けの道を選択するなどにより足袋産業は若年労働者の不足と従事者の高齢化が進む。足袋産業の衰退に適切な手を打たなかったことから人口減少につながる。平成7年転出増となり人口減少都市となる。
町割りは間口の広さに応じて税が課せられため、間口が狭く奥行きが長い短冊形の敷地が並び、行田は館林道・日光脇往還の宿場町であり馬の世話をする裏庭とそこに通じる路地が設けられていた。馬の世話の必要がなくなり遊休化した裏庭に足袋工場と足袋蔵が建てられていった。弘化3年(1846年)の大火の際には足袋蔵が延焼を食い止め防火の役を果たす。足袋蔵はその都度その都度、建築費の安い方法で建てられ色々なつくりがある。江戸様式。なまこ壁が無い行田様式。
3.足袋蔵の保存・再活用のあゆみ(日本遺産への道のり)
日本遺産認定を契機に、今の感覚に合ったものづくりをすれば足袋の需要は減らない。
足袋蔵の再活用の成功例が「あんど」。足袋蔵の活用には投資と回収。持てる知識を寄せ集めて活用することです。
最後に授業運営当番の歴史・文化1グループのメンバー紹介がありました。