第14期生(1学年)第6回講座「のぼうの城」を検証する・・・成田一族の盛衰

行田市民大学第14期生(1学年)の第6回講座「のぼうの城」を検証する・・・成田一族の盛衰が行田市郷土博物館 鈴木紀三雄館長を講師に迎えて令和5年7月5日(水)に実施されました。

講師 行田市郷土博物館 鈴木紀三雄館長

 

成田氏と忍城について

はじめに行田市郷土博物館第33回テーマ展「描かれた忍城」会期:令和5年7月8日(土)~9月3日(日)のパンフレットの配布と紹介がありました。

1.成田氏の登場 

平安末から成田郷(熊谷市上之)あたりを本拠にしていた豪族。鎌倉末から南北朝期、安保信保系の阿保氏が成田家の領地を継承し、家名も継ぐ。

*鎌倉幕府の御家人であった成田氏は鎌倉末から南北朝の動乱の中で没落し、縁戚の安保氏が所領を引き継いだ。

*戦国時代の成田氏はこの系統の成田氏。

2.忍城の築城 

文明11年閏9月24日付、古河公方足利成氏から別府宗幸への書状から文明11年(1479)には忍城の存在が確認される。

*忍城は足利成氏書状にあるとおり、文明11年には築城されていた。

*築城の背景にあるのは、関東の戦国騒乱。

*築城したのは成田下総守・成田顕泰か。

文明11年(1479)忍城の存在が確認 足利氏書状

成田氏館跡と鈴木館長

 

3.戦国時代の成田氏の動向 

*成田氏は戦国の動乱の中で国衆として古河公方・山内上杉氏・上杉謙信・北条氏・織田氏との間でその情勢により立場を変化させていった。

*羽生城の落城により、成田氏は北武蔵最大の戦国領主へと成長した。

4.忍城攻防戦 

(1)豊臣秀吉の関東出兵

・豊臣軍の編成総勢24万

①先方 一番隊 徳川家康以下十二番隊まで約12万3千が東海道を進む。

②本隊 秀吉軍以下 3万が東海道を進む 。

③北国隊 前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら約3万5千が碓氷峠を越えて関東へ。

④水軍 九鬼嘉隆ら約1万4千が相模湾に進軍。

(2)北条方の備え

①小田原城に篭城 対豊臣を想定して以前から増改築を重ねる。

②国衆の小田原への参陣(成田氏長等)

③主要な支城(鉢形城・韮山城・山中城・八王子城等)・配下の国衆の城による防衛 天正18年(1590)2月徳川家康ら出陣。

5.忍城水攻めの開始 

(1)石田三成の出陣 天正18年6月初頭 忍城攻めに石田三成ほか2万の軍勢を派遣。

(2)古文書に見る水攻めの経過。

6.忍城の開城

7月14日 忍城、豊臣軍に引き渡し。浅野長吉・木村常陸介ら忍城へ入城。

*忍城攻めを豊臣秀吉の関東侵攻の中に位置づけることが必要。

*忍城攻めは秀吉の水攻めの方針のもとに行われ、秀吉は最後まで水攻めに執着した。

7.忍城退出後の成田氏

①成田氏長の動向

成田氏長らは蒲生氏郷お預けとなる。九戸の乱に蒲生軍の一員として参戦。天正19年(1590)には烏山城主2万石として復活。

②成田宗家のその後

家督は弟泰親が相続、関ケ原の戦いで1万7000石加増。

③尾張藩系成田氏について

 

運営当番は歴史文化2グループ。

運営当番の歴史・文化2グループの皆さん

鈴木館長の「のぼうの城」築城から、成田氏の滅亡までのお話は、ひとつの大河ドラマを見るかのようで、1年生の皆さんは熱心に聞き入っていました。

忍城絵図の説明をする鈴木館長

 

 

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