行田の偉人たち(子ども大学)

7月16日(土)の午前に産業文化会館2階の2AB会議室で、令和4年の第2回の子ども大学の授業が開かれた。この日、第2時限目の授業としてNPO法人行田市民大学活動センターの今村理事長の講義が「ぎょうだの偉人たち」というテーマで、近代の行田で生まれ「行田市外で活躍された偉人」6人と「地元で活躍された偉人」5人の紹介が行われた。

今村理事長の話

行田市民大学の運営責任者の今村武蔵と申します。最初に市民大学のことをお話をします。市民大学は大人の大学です。1年生が24名、2年生が35名の大人が勉強しています。1年間1万5000円の授業料を払って頂いて2年間勉強します。平均年齢は何と69歳です。年間20回一生懸命勉強しています。

市民大学の合言葉は、

「自ら学ぶこと」は、楽しいことです。

「共に学ぶ仲間に出会えること」はうれしいことです。

「学んだことを日々の暮らしや地域に活かすこと」は楽しいことです。

の3つを目標にして勉強しています。

それから机の上で講座を聞くだけでなくて、みんなのようにグループに分かれて、グループのテーマを決め、グループで研究活動を行なっています。みんな熱心に勉強しています。

本日紹介する偉人は次の通りです。

行田の名誉市民は8人いて学校に額がかかっていますが、本日は、市外で活躍した人偉人7人と市内で活躍した偉人5人を紹介します。

 

「行田市外で活躍された偉人」

■小川 一真(おがわ かずまさ)1860~1931

行田生まれ、ボストンで写真術を学んだ明治の写真家で日本の写真術や印刷の発展に功績を残した。夏目漱石や明治天皇の写真を残した。

こちらのホームページの小川一真の写真を参考にしてください。

小川一真が残した写真

■小山 健三(こやま けんぞう)1858~1923

行田の藩校「進修館」に学び、渋沢栄一に対して、西の小山健三と呼ばれるほど活躍した。官僚として、後に関西の金融業界に入り大阪金融業界で活躍し、貴族院議員も務めた。

小山 健三の写真

 

■林 頼三郎(はやし らいざぶろう)1876~1958

旧押藩士の四男、苦学して東京法学院を卒業。日本の刑法学者、検事総長・大審院院長・司法大臣を歴任した。

水城公園にある林 頼三郎の記念碑

 

■大澤龍次郎(おおさわ りゆうじろう)1887~1974

大澤龍次郎商店、大澤証券株式会社(現株式会社SBI証券)を設立し、社長として活躍。福祉、消防、教育関係に浄財を寄付した。

大澤龍次郎氏が行田の清善寺に無縁仏を集めて作った行田新兵衛地藏は有名、かつては行田の観光地として関東一円から訪問客があった。

行田新兵地蔵尊

 

■湯本 義憲(ゆもと よしのり)1849~1918

行田市小針の豪農、明治期に政治家になり治水に貢献した。埼玉県会議員、衆議院議員を務め、その後、岐阜県知事になる。行田市にはこの人の後、衆院議員は70年間いない。皆さんに衆院議員になってほしい。湯本義憲の子には梨花枝という文学者がいて幾つかの書籍を残しています。埼玉古墳の入り口には、梨花枝の歌が石碑になっています。

前玉神社の湯本治水翁頌徳碑

 

■江利川 毅(えりかわ たけし)1945~存命

日本の官僚。公立大学法人埼玉県立大学理事長。人事院総裁、内閣府事務次官、厚生労働事務次官を歴任。事務次官(官職として最高の地位)を2度務めた優秀な人。

実績、日本国有鉄道を各JR会社に分割、介護保険の創設や構造改革、献金問題の解決等、江利川さんの言葉「役人として常に大切にしてきたのは責任と良心」

江利川 毅の写真

「地元で活躍された偉人」

■川島 奇北(かわしま きほく)1867~1947

正岡子規の高弟で、埼玉新派俳人の草分け的存在。句集に「田園」などがある。郡会議員、県会議員、須賀村村長などを歴任した。また能書家であった。

川島奇北の歌 二歳駒 買われて来たり 春渡し(意味確認)

■今津 徳之助(いまず とくのすけ)1854~1919

今津印刷所の創業者、埼玉で最初に活版印刷機を導入、忍町町会議員、忍町商工会会長を務めた。

郵便局、電話会社、行田電灯会社(忍城の隣)、馬車鉄道会社など設立に尽力。

また、北部鉄道(現、秩父鉄道)の開設に力を注など多方面に活躍し行田の渋沢栄一と称される。

今津印刷所

 

■松岡 三五郎(まつおか さんごろう)1867~1930

旧星川村出身、忍商業銀行(埼玉りそな銀行)・忍貯金銀行を設立、頭取となる。

さらに埼玉農業銀行、武州貯蓄銀行の取締役を歴任など行田のみならず県内の金融界に多大なる貢献をされた。

松岡 三五郎にはいくつかの著書がある

■橋本 喜助(はしもと きすけ)1889~没年不明

学校卒業後、三井物産株式会社に入社するが、病気のため退職。家業の足袋製造を営み足袋産業発展に尽くす。行田忍商業銀行取締役、また、足袋製造のための電動ミシンを動かすために行田電灯会社を作り社長となる。

行田の経済界に多大な貢献をされた。親の喜助は「行田足袋の開祖」として著名

橋本喜助に関係する画像

 

■奥貫 賢一(おくぬき けんいち)1906~2002

初代行田市長になり、昭和20年代に人口3万人都市ながら下水道工事に着工、30年代には工業団地の造成、水城公園の造成等先進的な町づくりに取り組む。

旧奥貫賢一邸はカフェ閑居になっている

これ以外にプリントで8人の行田市の名誉市民について説明していますので、そちらも見てください。

是非とも皆さんも社会で活躍する人になってください。

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