1年生視察ツアー 郷土の歴史ツアー

1年生の 第1回視察ツアー(郷土の歴史ツアー)「のぼうの城」成田氏関係史跡 が6月10日に実施された。今回は、コロナ禍の最中で1年生の人数が53名と大勢であったためバスツアーでなく徒歩によるツアーとなった。行田郷土博物館とその周辺の史跡を見学した。時間は10-12時と短い時間であったが充実した時間になった。グループは二つに分かれ、第一のグループは最初の1時間は行田郷土博物館近くの史跡の見学、もう一つのグループは、行田郷土博物館の中の展示物の見学を行った。後の1時間は、見学場所を交代した。

行田郷土博物館前に9時50分に集合(座っている2人は出席を確認する運営委員)

 

第一のグループの案内は、行田市文化財保護課の中島洋一課長に担当して頂いた。

中島洋一課長

博物館周辺を見学するグループ

最初の見学場所は、東照宮の中の「諏訪社」と併設されている「二の丸稲荷神社」。

諏訪社は古い神社、忍城の中にあったもの。「二の丸稲荷神社」も忍城の二の丸にあったものを移設したということです。

 諏訪社

 二の丸稲荷社

続いて、東照宮の入り口の横にある忍城の鳥観図の説明を受けた。

忍城の鳥観図

かつては、攻める側はこのような鳥観図的に城を把握することができず、周りからの外見だけの情報で、攻めることが難しかった。また、忍城はいくつもの橋を渡らないと、奥に進むことができず、結果的に橋の上の戦いになり小規模な戦いしかできず、守る側に有利であったという。

 

阿部家は1639年以降、お城整備をおこない、三階櫓を水城公園に、また、いくつかの二重櫓を各地に作った。現在の矢場の栗原医院の敷地には、その中の一つの二重櫓の碑がある。

栗原医院の庭の二重櫓の碑

 

また、矢場には個人の家の庭に土塁の一部が現在も残っているところがあり、忍城の遺構として重要なものである。

個人の宅地内に残っている忍城の土塁の一部(木の根元がこんもりしている)

更に進むと、忍城の皿尾口の跡が、道路とも公園ともつかない形で残っていた。

浅野長政軍が陣取った皿尾口

この後、有名な「涙橋跡」と「縁切橋跡」を訪問した。

 

成田氏長は妻、新田金山城主・由良成繁の娘(甲斐姫の母)と離縁し縁切橋で別れを惜しむ。妻は次の涙橋で振り返り、涙を流して皿尾門から忍城を出て行ったといわれる。

また、この近くには、現存するただ一つの武家屋敷があるという。

赤いトタン屋根が武家屋敷、後ろの赤い屋根は長屋門

この後、行田郷土博物館に戻り内部の見学をおこなった。内部は写真撮影ができず、文章だけの報告です。

行田郷土博物館の中には、忍城の鳥観図的な模型があり、東照宮横の鳥観図と比較することができた。印象としては忍城の水の範囲が東照宮横の鳥観図より少し小さいように感じた。こんな感じだったら、長い土手を作って水攻めにするよりも、反対に、忍城の水路を変更して忍沼の水を干あがらせて沼を埋めて攻めることも良かったかなと思いました。

子供の頃は、唯の鐘と思っていた忍城の鐘は今、実物を見ると細かいところの細工が素晴らしいものだと感じました。桑名藩のお殿様の松平忠堯が素晴らしい鐘なのでわざわざ運んできたということです。

上階には、昔の忍藩の絵がありましたが、久下の三島神社が気になりました。忍のうなぎと関係があるのか。

忍城からは、丸墓山も稲荷山も小さくて微かで確認できませんでした。

 

ー 以上 ー

 

 

 

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